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ビーグル (帆船)
ビーグル(HMS Beagle)は、イギリス海軍の10門の砲を搭載したチェロキー級ブリッグである。ビーグル号の名は、野兎狩りに使われる猟犬ビーグルに由来する〔パトリック・トール著、平山廉監修、南條郁子、藤丘樹実訳 『ダーウィン』 《「知の再発見」双書99》 創元社 2001年 33ページ〕。1820年5月11日にテムズ川のウーリッジ造船所で進水した。建造費用は7803ポンドであった。その年の7月、ビーグルはジョージ4世の戴冠式を祝う観艦式に参加し、新しいロンドン橋の下をくぐった最初の船となった。その後5年間は予備艦となっていた。それから調査用のバークに改装されたビーグルは3度の探検に参加した。2度目の航海ではチャールズ・ダーウィンが乗船した。 == 最初の航海 == 1825年9月、ビーグルはウーリッジでドックに入り5913ポンドをかけて新たな任務のための修理と改装が行われた。砲は10門から6門に減らされ、操船性の向上のため後マストが追加された。そのため、ブリッグからバークになった。 1826年5月22日、ビーグルはプリングル・ストークス船長の指揮の下で最初の航海に出発した。この航海では、フリップ・パーカ・キングの指揮の下、ビーグルより大きな船アドヴェンチャー(380トン)と共にビーグルはパタゴニアとティエラ・デル・フエゴ諸島の水路調査を行った。 フエゴ諸島の荒涼とした海域でのより困難な調査に直面して、プリングル・ストークスは深いうつ状態に陥った。マゼラン海峡のポート・ファミンで彼は14日間部屋に閉じこもってしまった。そして、12日間の精神錯乱状態の後、1828年8月2日に自分自身を撃ち死亡した。パーカ・キングがビーグルの副長W・G・スカイリングと共にストークスの後を引き継いだ。彼らはリオデジャネイロへ向けて出港し、そこで1928年12月15日にガンジスに座乗する南アメリカ方面の司令官ロバート・オットウェイ少将が彼の部下のロバート・フィッツロイを一時的にビーグルの船長に指名した。 23歳の貴族、フィッツロイは有能な指揮官であり、また念入りな調査を行った。フエゴ島民の一団が船のボートを盗んだ時には、フィッツロイは彼らの家族を人質として捕らえた。結局彼は二人の男、少年と少女を一人ずつ捕らえ、その4人はイギリスへ連れて行かれた。1830年10月14日、ビーグルはポーツマスに帰還した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ビーグル (帆船)」の詳細全文を読む
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